「右13時の方向です!」
「あ、15時にも!」
「これは左手6時から12時の方向にかけて群れをなしているようですね~」

ホエールウオッチングの船に乗った途端耳にするのは、これらの表現です。双眼鏡を手に船の見張り台に立った水先案内のガイドさんの元気な声が聞こえてきます。どのあたりにクジラが見られるか、その方角を時計の針の示す時刻に例えて、説明しているのです。スピーカーから聞こえる声に従って、乗船客たちは右へ左へ、前へ後ろへと、船のデッキをあわただしく移動します。

夏のアイスランド観光ではアウトドアとクルーズが盛んになりますが、その中でも人気が高いのがホエールウォッチング。レイキャヴィークの港から3階建てのツアー船に乗り、約3時間北の海を進みながらクジラの行方を追います。
私もホエールウォッチングツアーには春と夏と過去数回参加したことがありますが、2011年の6月半ばほど一度にたくさんのクジラを見たことはありませんでした。

当日はアイスランドの6月らしい、気持ちのよい、晴れた夏空ではあったものの、いつ天気が変わるかはわかりません。欧米からの観光客の中には薄手の上着にTシャツというツワモノが見られましたが、これはアイスランドの海を知らない証拠です。夏とはいえど海の上は風が大変冷たく、ウインドブレーカーの下に、一枚セーターを着るような防寒は必要。また極地方独特の日差しに耐えるために、サングラスと日焼け止めも必需品です。あとは、絶対に忘れてはいけないのが、双眼鏡!これだけ万端に準備をして、船に乗り込みました。

ホエールウォッチングに向かう船には、出発15分前にもかかわらず、よい席を取ろうと早々に人が乗り込んでいました。

船は順調にレイキャヴィークの港を出航し、最初の目的地であるパフィンの繁殖地に向かいます。
パフィンは、和名ではヒメツノメドリと呼ばれる、夏の間アイスランドで繁殖をする渡り鳥です。この鳥は一度見たら、バードウオッチングに興味のない人でも、忘れることはできません。ペンギンのような白黒の配色と、少し丸みを帯びた体にオレンジのカラフルなくちばし、また垂れ目に見える目の周りの縁取りが、非常に印象的です。パフィンを見るために、わざわざ夏のアイスランドにやってくる観光客もいるくらい、人の心をわし掴みにする愛くるしい鳥です。
パフィンは離島や海に面した崖の斜面に巣を作る性質があるため、こうしてクジラを探しながらパフィンを見ることができます。ただ、あまり島の近くまで寄ってしまうとパフィンが驚いて飛んで逃げてしまうため、海上からある程度の距離を保たねばなりません。それでも遠目にも島中が黒とオレンジで埋め尽くされて いるのがわかります。

夏の間、産卵と子育てのためにアイスランドにやって来るヒメツノメドリ

そろそろクジラの姿が見えてもおかしくありません。船には特殊なレーダーが搭載され、クジラが確認できる周辺を目指して移動していきます。パフィンのほほえましい姿を後に、船は夏の海をずんずん進みます。船の周辺を見渡すと、澄み渡った景色の彼方にスナイフェルス氷河が見えることもあります。

しばらくして聞こえた「11時の方向にハナジロカマイルカが泳いでいます」というアナウンスの声に乗船客は一斉に船の左側に移動します。海の動物たちは自由気ままに泳ぐので、船のどこで見られるかは誰にもわかりません。このハナジロカマイルカたちは好奇心旺盛な、若いオスの群れだったのかもしれません、船を怖がる様子もなく、背鰭を見せながらしばらく船に沿って泳いだ後、海の中へ消えてしまいました。

港を離れて約1時間。イルカたちが離れてからほどなくして、「あっ、9時の方向に見えます!」という声が聞こえました。するとクジラの背中が大きく海面に浮かび上がり、海の中へ消えていく様子が見えました。クジラの動きは意外とすばやく、海中に潜ってしまうと姿を捉えることができません。カメラを手にした人々は撮影のタイミングがつかめずにいたようです。もっと見たかったね、という声が上がる前に「次は8時と9時の間に、あれはミンククジラが数頭いるようです!」という声が聞こえ、いすに座ろうとしていた人も一斉にその方向に押し寄せました。この周辺で見られるのは主にミンククジラなのですが、その数は世界全体で約100万頭、アイスランド近海でも約5万から6万頭と言われています。クジラの中でも小さい部類とはいえ体長9メートル前後に約10トンの重さというので、実際間近に確認できたときの存在感には圧倒されます。クジラが見られた喜びでデッキは大賑わい。

しかし、この日のツアーはこれだけで終わりではなかったのです!
「次は12時に見えます!」と言われ船の前方に押し寄せたかと思うと、「あ、13時にも移動…いや、14時にも…なんとこれは大きな群れのようです!」とアナウンスの声もどんどん早口になり、声が高まってツアーガイドの興奮がわたしたちにも伝わってきました。なんと船は複数のクジラの大きな群れに囲まれていたのです。
そのクジラの数の大きさに、船はもはや動くことができずに、海上に完全に停止してしました。乗船客は、船のすぐ近くを泳ぐクジラの群れを目の当たりにして、あまりの感動に誰も声が出せない雰囲気でした。

見張り台ではガイドさんが無線と双眼鏡を手にクジラの行方を追い続けます。「~時の方向にクジラが見えます!」というその声に、乗客の誰もが一斉にカメラを構えてシャッターチャンスを狙います。

船内でコーヒーを飲み、少し体が暖まった頃に、船は再びレイキャヴィークの港に向けて旋回したのですが、街の景色が近くに見えてきても、クジラたちはまるで船を追いかけてくるかのように、ずっとそばを泳ぎ続けていました。
ツアー終了時に、この船のガイドさんと話をしたところ、ここまでたくさんのクジラをこれだけ一度に見たのは彼女も初めてだったらしく、驚きと興奮のあまりマイクが離せなかったとのことでした。

港で船を降りる際、ホエールウオッチング関係の会社の人たちが「Meet us, don't eat us! (食べないで会いに来て!)」と書かれたチラシを配っていました。アイスランドは日本と同様に今では捕鯨国です。

アイスランドとクジラの歴史はすでに12世紀ごろから始まっています。この時期には島近辺ではすでに捕鯨が行われていた記録があり、古代文学「サガ」にも16ほどのクジラにまつわる物語が記されています。その中には、入植直後の貧しい土地で飢えた人々をクジラ肉が救ったという話もあります。
アイスランドの捕鯨は従来食用でした。アイスランドの痩せた土壌は、農耕に向いていなかったために、商業漁業が始まってからも、クジラは食用として欠かせないものでした。よってアイスランドでは日本と同じように、捕鯨は伝統的な漁業の一部だったのです。

それに待ったがかかったのが、世界の捕鯨が国際捕鯨委員会IWCの決定です。アイスランドは加盟国であったために、1986年から20年間は「調査目的または先住民族によるもの以外捕鯨禁止」という決議に従うことを余儀なくされます。
その結果アイスランドは1986年から3年の間、調査捕鯨を行いますが、それも大変波乱を含んだ経緯で中断させられることになります。IWCの条件の下に調査捕鯨が行われていたにも関わらず、反捕鯨国やグリーンピース、シーシェパードをはじめとする過激な反捕鯨団体から、船への直接攻撃や魚の非売運動などと言った圧力を受け、アイスランドはそれに屈する形で調査捕鯨からも身を引きます。
デンマークから独立してわずか50年にも満たないアイスランドにとっては、これは明らかに国の威信問題でした。そこでアイスランドは抗議の意味も含めて、1991年から2002年の間、IWCを脱退します。しかも1990年から12年の間は、捕鯨を完全に放棄せざるをえませんでした。国際世論は捕鯨禁止に大きく傾いていたうえ、漁業で成り立っているアイスランドの経済は、輸出先でのボイコットには勝てなかったのです。

しかし、その後アイスランドは2003年から調査捕鯨を、そして2006年には商業捕鯨を始めます。日本とノルウェーが捕鯨を再開したのを受けての形になりましたが、実はこれはアイスランド人が自分たちの国に自信を持ち始め、国の経済も上昇し始めていた時期にあたります。漁業権を保有している企業や個人が、国家の資源活用の権利としての捕鯨を政府にアピールしたのです。そして大変興味深いことに、金融崩壊後の2008年以降は、捕鯨は国の経済を支える輸出品としての付加価値もあると、漁業関係者は主張しています。

レイキャヴィークの港には、たくさんのホエールウォッチングの会社が並びます。
(写真左)クジラに扮装したホエールウォッチング案内のお兄さん。頭にかぶったひれに「Meet us, don't eat us」のメッセージが。

現在では街にはクジラ肉を提供しているレストランがあり、スーパーでも簡単に入手できます。一般家庭のアイスランド人の食卓にクジラの肉が上がることがありますが、それでもラム肉のようにアイスランド人の食生活に不可欠というほどの重要度はもはやありません。
アイスランドの世論としては、捕鯨に関して概ね好意的です。クジラの種の存続を脅かさない限り、アイスランドが捕鯨を続けることに異存はないようです。
ただそこに妥協ができないのが、ホエールウオッチングを呼びものにしている観光業界です。確かにイメージ的には、捕鯨とホエールウオッチングは対極にあるように思われます。ただいずれにせよ、クジラがどの産業にとっても意味のある、国の資源であることには変わりありません。それを上手に活用できるかどうかは、ひとえにアイスランド人の力量にかかっていると言えるでしょう。

 


(2012年7月 by P)

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