何事にも、ものごとが動くには2つの面があります。それは紙の表と裏のようなもので、その両方がないとものごとは軌道に乗らず、単なる空論で終わります。アイスランドの音楽ホール・ハルパに関して言えば、その表の部分が建設を建築物として実現させた・指揮する国と市、銀行、デザイン・設計、また建設会社だということは、みなさんもすぐにお分かりでしょう。

それでは、それの裏の部分、つまりその案を初めて机上に乗せ、議論をする価値のある事柄として国民の目を向けさせ、有力者に働きかけ、実際にプロジェクトとして軌道に乗せるソフト面に貢献した人が誰か、みなさんはご存じですか? 実はこの人物は日本でもなじみが深く、2000年から定期的にN響の指揮をし、2004年から3年間音楽監督を務めた人物と言えば、名前が思い浮かぶ方も多いかもしれません。それはロシアのピアニストであり、現在ではシドニー交響楽団を始め、世界中の交響楽団を指揮するために駆け回っているウラディーミル・アシュケナージ氏です。

アシュケナージ氏とアイスランドは、一見するとまったく繋がりがないように見えますが、実はアイスランドという国は、1963年に当時のソビエト連邦からイギリスに亡命をしたアシュケナージ氏に市民権を与え、受け入れた国でもあるのです。アシュケナージがアイスランドを選んだ主な理由は、奥さんがアイスランド人だったことだと思いますが、それでもアイスランド国民のコンセンスがなければ、市民権の交付は決して実現しなかったことでしょう。

(左)ハルパのこけら落としで新鋭ピアニスト、ヴィーキングール・ヘイザール・オーラブソンと共演するアシュケナージ氏 (右)ウラディーミル・アシュケナージ氏 © DECCA

その当時は冷戦の真っただ中。前年の1962年10月にキューバ危機が起ったことを考えると、アメリカとソビエトの敵対関係がどれほど緊迫していたか、みなさんも想像ができると思います。今回の尖閣問題も日中関係にかなりの緊張を強いておりますが、当時の2国間はそれがあわや核の行使を含んだ戦争勃発可能にまで高まっていました。アメリカ側についていたヨーロッパ諸国は、この時期ソビエトと事を構えることは、どんな些細なことであっても避けたかったはず。実際この頃には、アシュケナージのピアニストとしての名声は、クラッシック界では知らない人はいないほど、世界中に轟いておりました。そのような知的文化人、かつ国民的英雄が、世界中に向かって、ソビエトではもうこれ以上やっていけないよ!と宣言したのです。ソビエトの顔は丸潰れでした。

アイスランドは面白い国で、相手がどんな大国であろうと、亡命を望む文化人に対し、手助けをし、受け入れる傾向があります。最近の例で言えば、チェスの天才だったボビー・フィッシャー。1992年のユーゴスラビアのチェス大会に参加し、優勝して賞を受け取ったことからと、アメリカ政府から国籍をはく奪され、流浪先の日本で入国管理局に身柄を拘束されたところを、アイスランド政府が引き取ったという経緯があります。世界中の文化人が彼をアメリカ政府に引き渡さないための運動はしましたが、結局国として名乗りを上げたのは、アイスランドだったのです。

ハルパのメインホールで行われたオープニングコンサートは、1600席全席を完売した。
(アイスランドシンフォニーと合唱団との共演でベートーヴェン第九を演奏)

アイスランド政府は当時、アシュケナージ氏に市民権を与えただけでなく、ソビエト連邦に住んでいた両親がアシュケナージ氏に会えるよう、彼らの渡航 許可を得るべく、ソビエト政府に働きかけました。1972年にはアシュケナージ氏と在アイスランドソビエト大使が面談をしましたが、最終的に許可がおりたのは、1976年。1967年から8年の歳月をかけて、アイスランド政府はアシュケナージ親子が再会できるように外交努力を重ねたのでした。

アシュケナージ氏が指揮台に立ち始めたのは1970年代の初め、1980年代からはアイスランド交響楽団の指揮をし始めます。しかし彼がアイスランドで指揮をした場所は音楽ホールではなく、映画館や体育館を会場として急遽設営された仮コンサートホール。その状況を何とかしようと、アイスランドの音楽家たちと一緒に決意したのが1984年、アシュケナージ氏がロンドン交響楽団を連れて、レイキャヴィークの文化イベントの一環としてレイキャヴィークで指揮をしたときのことだったそうです。その第一歩として、彼は、ロンドン交響楽団の助力を受けて、1985年にロンドンにでアイスランド音楽ホールの資本金を集めるチャリティーコンサートを行いました。そしてそのときから2011年5月まで、アシュケナージ氏は日となり影となり、音楽ホール設計実現のために尽力し ます。

ハルパのメインホール ©HARPA

27年もの歳月をかけて、アシュケナージ氏がこの事業に携わったその理由は何だったのでしょうか?市民権を与え、自分の両親に会えるように長い年月をかけて働きかけてくれたアイスランド人へのお返し?
恩返しという意味ならば、アシュケナージ氏がアイスランド交響楽団を指揮し、指揮者としての自分の知名度が上がるとともに、海外の有名なアーティストや交響楽団をアイスランドに連れて来てくれたことで、すでになされているような気がします。彼は今では世界中で引っ張りだこの指揮者ですから、アイスランドには以前のように頻繁には来られません。それでも2002年にアイスランド交響楽団の名誉指揮者に就任してから、年に一度は秋のオーケストラシーズンの幕落としのコンサートの指揮に必ずアイスランドに足を運んでいます。

これはあくまでわたしの個人の見解ですが、これまでのアシュケナージ氏のテレビのインタビューや新聞の記事を追っていますと、ハルパ音楽ホール設立は彼の音楽家としての使命がなした業だったような気がしてなりません。音楽家として、本当のクラシック音楽の音響というものを、アイスランド人の観客に覚えさせること―それは強いては、アイスランドの文化水準を高め、著名な音楽家を招聘することを可能にし(適切な音楽ホールがないことを理由に、アイスランドでの演奏を断った音楽家が多くいたそうです)、将来の音楽家を育成することにも繋がります。クラシック音楽に関しては悲しいほど後進国であったアイスランドのレベルを、彼は指揮を通じ、またハルパ設計を支持することで、遥かに引き上げることに成功したのでした。

ハルパのこけら落としの2011年5月4・5日のコンサートには、アイスランドの新鋭ピアニスト、ヴィーキングール・ヘイザール・オーラブソンとの共演にて、グリークのピアノコンチェルトとベートーヴェンの第九が演奏曲として選ばれました。日取りが決まった途端、チケットはすぐに売り切れたために、急遽5月6日にも追加公演が決定されます。その前後に受けたアイスランドテレビ局、またはドイツ Zeit誌のインタヴューでも、彼は経済的困難にありながらも、ハルパの設計を放棄しないでやり遂げたアイスランド政府の決断と金融危機で苦しむアイスランド人たちに感謝の意を表しています。「いい音を知ると、もっとそれを聞きたくなるものだ。そうすれば、音楽に関わる人たちがもっと増えて来る」と彼は言っています。

そして同年9月のオーケストラシーズン初のコンサートに、アシュケナージ氏は再びヴィーキングールと組んでラフマニロフのピアノ協奏曲3番とショスタコーヴィチの交響曲5番を演奏しました。こけら落としにはグリークとベートーヴェンを指揮した彼が、この日は彼自身の思い入れのあるロシアの作曲家をコンサートに選んだのは、大変印象的でした。

最後にアシュケナージ氏の人となりについて。白髪で小柄、大学教授のようなオーラを醸し出しながら、ロシア語の訛りが抜けない英語で話す彼は、大変 親しみを感じさせる人です。アイスランドの国営テレビのインタヴューにて「年に1回しか指揮に来てくれないのは残念だ」と言ったインタヴューアーに、彼は「呼んでくれたら毎週でもアイスランドに来るよ」と茶っ目っ気のある回答をしています。

またこれは2011年の9月のコンサートのリハーサル時のことですが、始まる前に客席に紛れこんでいたわたしに、指揮台から「こんにちは!」と気軽に声をかけてくれたのは驚きました。また演奏曲の一部を簡単に流した後、客席に座っていた奥さんに音響はどうか、楽団員の前で意見を聞く姿にも、その気さくな人柄が感じさせられました。リハーサル後に「2012年の秋にはシドニー交響楽団を連れて日本でピアニストのキーシンと共演するそうですね」と尋ねる、無名のクラッシック音楽愛好家に過ぎないわたしに、「彼とはいい友達なんだよ。よくいろいろな話をするんだ。すばらしいピアニストだよ。ほんとうはもっと一緒に彼とやりたいんだけれどね、そうは思っていてもなかなか…。でも今回日本で共演できるから、とても楽しみにしているよ」と笑顔で気軽に答えくれたアシュケナージ氏。

「スターリン専制政治下のプロコフィエフとショスタコーヴィチ」という題で2003年から各国で行ったコンサートプロジェクト、旧ソビエト連邦下の非人道的な体験を語ったインタヴューなどを背景として知っていると、彼の明るさと穏やかさはひとしお意味深いものに思えてきます。音楽を通じて世界と繋がり、体制に命をかけて立ち向かい、文化貢献に寄与する彼の姿からは、芸術家であると同時に本当のヒューマニストであることを感じさせられました。その彼の指揮をこうも気軽に見にいけるのは、アイスランドならではの面白さだと思います。


(2012年10月 J. Sakamoto)

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